震災から10年、次世代の防災に取り組む宮城県の児童館
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2011年3月11日に発生した東日本大震災から、今年で10年が過ぎました。東北地域に大きな被害をもたらした震災ですが、各地の児童館も多くの被害を受けました。児童健全育成推進財団(以下、育成財団)では、発災直後から各地の児童館と連携し、被害状況の情報収集にあたりました。当時、岩手県、宮城県、福島県で25館もの児童館が長期的に利用不能、津波などで損壊、流出する被害がありました。その後5年間にわたり、東日本大震災復興支援プロジェクトとして児童館への支援金を集めたり、物資の手配や寄付品の仲介をしたり、他の児童館職員の派遣を行うなど現場ニーズに応じて支援を続けてきました。
今回は、津波で児童館が全壊する被害にあった宮城県亘理(わたり)郡亘理町にある荒浜(あらはま)児童館の、震災当時から現在にいたるまで現場職員の方々の居場所づくりへの想いや、防災への取り組みについてインタビューしました。
海から200m、津波で全壊した荒浜児童館
▲被災した荒浜児童館の様子
荒浜児童館の主な利用者は亘理町立荒浜小学校の生徒たちでした。「地震発生時はみんな小学校に行っていたので、児童館には利用者が幸い誰もいなかったんです。揺れた後、小学校の先生たちが子どもたちを家に帰さなかったのは、いま思えば英断だったと思います」。当時、荒浜児童館の館長を務めていた鈴木由美子さんはそう語ります。
荒浜児童館は昭和41年に設立され、保育所に隣接した平屋の児童館でした。乳幼児支援も充実した児童館で、地域の子どもたちや保護者の居場所として機能してきました。震災当時、海にも面している亘理町では、震度6弱の揺れと町面積の約半分が浸水被害を受けました。児童館は海から200mほどの場所にあり、地震発生から50分後に到達した津波は天井部分まで達し、柱や窓ガラスは破壊され、施設全体に瓦礫が入り込みました。児童館職員2名は、下校する子どもたちの確認をしながら荒浜小学校まで移動し、その後小学校と連携し合いながら行動をともにしました。日頃から学校との関係性を育んでいたことで、スムーズに避難できたといいます。
子どもたちが安心できる居場所づくり
▲小学校内の一室を借りた仮設の児童クラブの様子
児童館に通っていた荒浜小学校の子どもたちは、避難所の受け入れ人数の制限もあり、内陸の小学校や高校へバラバラに避難しました。荒浜児童館の一部の職員たちは、同じ町内の逢(おお)隈(くま)小学校で避難生活を送っていました。食べ物や段ボールなどの物資は、支給される量にバラつきがあり人によって格差が生まれたそうです。夜は、缶詰にロウソクを立てて灯りを確保するものの、余震で揺れる度に吹き消さなければなりませんでした。
発災から一か月余りの4月25日、行き場のない子どもたちのために小学校内の1教室を借り、児童クラブとして再開し、25名ほどの子どもたちの居場所となりました。子どもたちは午前中に授業、午後から児童クラブとして教室で過ごしました。学校の階段を下り、「ただいま」と言って児童クラブへやってきます。同じ建物のため、子どもたちは気持ちの切り替えがつかずリフレッシュできない様子も見られたそうです。
荒浜児童館の職員であり、児童クラブの運営をしていた亘理保育所の所長佐藤恵美子さんは「学校とは別の空間をきちんと確保することが、いかに大切だったのかを感じさせられました。限られた環境でも少しでも子どもたちがホッとできる、楽しく過ごせる工夫をしたいと思い、いつも通りホットケーキや焼きおにぎりなど手作りおやつを提供し『お帰り!』と言って迎えました。子どもたちは、『何のにおい?今日のおやつは何?』と楽しみに来てくれました。」と振り返ります。
逢隈小学校が避難所の役割を終え、荒浜小学校が逢隈小学校内で再開した後、子どもたちは仮設住宅から学校に通い、そのまま児童クラブで過ごすことになりました。仮設住宅では隣の住宅との壁も薄く、互いが気を使いながら生活していたこともあり、子どもたちは大声で笑うことすらできずストレスも溜まっていたといいます。その中でも児童クラブは、子どもたちにとってホッと安心できる、もやもやした気持ちを発散できる場所として約2年間運営されました。
「子どもの声っていいね」 子どもたちの姿は地域の希望に
▲仮設児童館として再開された荒浜児童館(2013年3月)
再建の目途がたっていなかった荒浜児童館ですが、育成財団にマニュライフ生命保険株式会社から寄付金の支援があり、仮設児童館が建設されることとなりました。鈴木館長をはじめとする当時の荒浜児童館の職員たちは、管轄自治体である亘理町の福祉課、建設会社、育成財団の担当者とともに、児童館が子どもたちにとって安心・安全な居場所になるよう検討を重ねました。
震災から2年が経った2013年3月11日、荒浜小学校の隣に約100平米の仮設児童館が完成しました。子どもたちも職員も、自分たちの居場所となり、ようやくホッとする空間ができたといいます。
「地域の人たちが、『電気も信号も無く夜も暗くてさみしかったけど、やっぱり子どもたちの声っていいね』と言ってくれました。子どもたちの元気な姿は、町が元気になることそのものなのですね」と仮設児童館の当時の館長だった吉田保育所の所長小野百合子さんは、その一言で改めて地域の中に子どもがいる意味に気付かされたといいます。
仮設児童館は、仮設住宅でも学校でも大きな声を出せずにいた子どもたちが、唯一ありのままの自分を出せる、居心地の良い空間だったようです。
備蓄だけでは不十分、実体験を重ね工夫する力を育む
▲地域での避難訓練の様子
その後、仮設児童館は2年ほど運営し、荒浜小学校の道路を隔てた南側に児童館と保育所が建設されました。仮設児童館の建物は、別の地域に移設し児童クラブとして現在も活用されています。
震災後、荒浜児童館と地域との連携はより強まったといいます。小学校や保育所と連携し、どのようにして子どもたちの命を守るのかをともに考え、津波が来たときの避難ルートを確認したり、被災後に必要となる灯油や食料品などがどの施設にどの程度備蓄されているのか情報を共有し実際の対応を細かく想定するようになったといいます。
「防災というと、つい備蓄をして満足しがちなのですが、それも津波に流されてしまったら意味がありません。いざというとき物が無いなりにどうするのか、子どもたちを守るため両手が荷物でふさがらないようにするにはどうすればいいのか、一人ひとりが臨機応変に考え工夫できる力を身に付けることが大切だと思います。記憶を風化させないためにも、10年経った今だからこそ良い機会として地域のみんなで体験しながら学べる機会をつくっていきたいです」。鈴木由美子さんは、実体験から得た教訓を話してくれました。
町では実際に夜の暗い時間帯に逃げる訓練をしたそうです。「ここの階段は暗いから灯りが必要」など、体験したからこそ初めてわかることがたくさんあるといいます。また、震災後に災害時の保護者への連絡ツールとしてメールのネットワークもでき、日頃から保護者周知の徹底がされコミュニケーションをとれるような習慣ができているそうです。
「東日本大震災では、被災地域において障がいを抱えている方の居場所が少なかったと言われています。地域の人が一人でも多く安全に 避難できる町でありたい。児童館の役割としてどこまで担えるかわかりませんが児童館にはその可能性があると思います」と、小野百合子さんは今後の展望を語ってくれました。児童館がハブとなって、町がつながり助け合えるまちづくりが進む亘理町。次なる震災に備える知恵が、たくさん詰まっていました。