事務所を子どもたちに開放した実践事例~お茶の間のような事務所から見えてきたもの~
児童健全育成に関する優れた実践報告に対し、褒章を行う児童健全育成賞(數納賞)。平成29年度受賞実践論文から、東京都三鷹市立西児童館 児童厚生員(当時)宮村真紀さんの取り組みをご紹介します。
事務所に入り浸る子どもたち
西児童館(当時)は、1日平均170人が利用するにぎやかな児童館で、乳幼児親子や小学生に混ざって、中高校生などが来館している。なかには事務所に入り浸る子どもがいて、空いている椅子に座り、大声で仲間と話し、職員と一緒におしゃべりをしていて、その姿は、さながら親と過ごしている子どものようで、茶の間のような空間となっている。
問題を抱えた子どもたちの3事例
中学を卒業して進学も就職もしていなかったAは、毎日のように児童館に来ていた。ある日、「刺青を入れる場所を検索したいからPCを貸して」と言ってきた。私は「断る、刺青なんか入れるのはやめな」と答えた。するとAは激怒し、殴りかかってきた。それでも、私は痛みに耐えながらも要求をのまなかったら、Aは「二度とこんな児童館来るか」とわめいて出ていった。翌日、やってきたAに事務所で私が「Aにぶたれたところが痛い。今日は私の仕事を手伝ってよ」と言うと、「しょうがねえな」と仕事を手伝ってくれた。Aの事実上の謝罪であった。私が要求をのまなかったことで、彼と私は急速にその距離を縮めることができた。Aは無意識に、私が本当の意味で大切にしてくれる大人かどうかを試したのだ。
中学3年のBの母親は、ギャンブル依存症で両親は不仲、Bにとって家は居心地の悪い場所だった。精神的に不安定な上、内向的な性格も原因となり、友だちとの関係につまずくと学校が怖くなる。そんなBは、朝に児童館に寄って職員と一緒に学校に行こうと努力していた。その職員が私の前任の者だったが、転勤でその存在を失ったBは、学校に行けない日が増えていった。そうしたなか、私が事務所で職員や子どもと会話している姿をじっと観察していた。そして、私との距離を縮めて安心して共にいられるようになり、一緒に登校するようになった。 高校3年のCは、明るい性格で誰とでもすぐに仲良くなれて、問題なさそうなのに頻繁に事務所にやってくる。そのうち、職員との会話から、Cが家族のことで苦しんでいるのがわかった。新参者の私がCの話に入ってはいけないと思い、距離を置いていたが、Cから私に意見を求めてきた。「相談するに値する人間だと思ってもらえた」と感じた瞬間だった。このお茶の間のような事務所がなかったら、当時10人を超える手のかかる大きな子どもたちとの信頼関係をつくるには時間がかかり、子どものケアも遅れたと思う。困難を抱えて生きている子どもが自立するには、「支え続ける人と時間と場所が必要」であり、その役割を担ったのが児童館の職員と事務所だといえる。
3名のその後
刺青を望んだAは、塗装職人見習いとして働き始めたが、簡単には順応できず、無断欠勤や退職を繰り返した。やがて、Aの心の性が戸籍上と異なることを告白され、Aの悩みが家庭だけでないことを知らされた。その後、職場での信頼が厚くなった26歳の現在、自分の会社を立ち上げる準備を始めている。Aが時折、事務所に近況報告にやってくる。実家に里帰りするかのように。内向的だったBは、毎日のように事務所で勉強し、学校に行くようになった。その後、定時制高校に入学し、美術大学への進学を夢見て、必死にアルバイトで貯めた進学資金をギャンブル依存症の母親に全額盗られてしまった。その後、進学を諦め家具職人として就職するが、仕事を覚えるのに時間がかかり退職。次にアニメーターの仕事に就くが、そこでも極端に仕事が遅く、叱られることが続き退社。
Bは、「なぜ仕事が覚えられないのか」と相談に来た。「自分は障害があるのかもしれない」と本人の一言があり、私も病院での検査を勧めた。診断結果は発達障害。そこで、自分の苦手分野を理解したうえで、障害者枠で病院の給食調理の仕事に就くことができた。彼は現在25歳、Bが時折やってくるのは、ゆっくり関係を紡げる「場」があったからだ。
Cが誰とでも仲良くでき、どんなときでも明るいのは、自分の内なる苦しさを人に悟られまいとしていたからだ。Cの母親は離婚後行方がわからない。父親は再婚し、Cには弟と妹ができたが、Cだけは祖母宅で生活することを強いられた。やがて、Cが高校生になったときに一緒に生活を始めるが、進学費用や家族旅行のCの旅費は借金として返済するよう求められ、アルバイト収入を親に渡す日々が始まった。Cは、家族と幸せに暮らせる日が来ると信じていた。抱えきれない苦しさを吐き出すために、アルバイた。やがて、Cが高校生になったときに一緒に生活を始めるが、進学費用や家族旅行のCの旅費は借金として返済するよう求められ、アルバイト収入を親に渡す日々が始まった。Cは、家族と幸せに暮らせる日が来ると信じていた。抱えきれない苦しさを吐き出すために、アルバイト前に児童館に寄って、職員に胸の内を話していた。高校1年の終わりに、Cは抑圧された生活に耐えきれず警察に助けを求めた。いったん児童相談所から施設に入るも、再び家に戻され以前と同じ生活が始まった。高校3年のときに、「また戻されるかもしれないけれど、それでも家を出たい」とSOSを出してきた。私は、母子自立支援をしている部署に連絡を取ってみた。幸いにもCの状況が理解され支援を受けられて、シェルターに入ることができた。そこからCは、介護職員初任者資格を取って、その後結婚し現在22歳。
問題表出過程の共通性
こうした経験から、子どもたちが抱える問題が表面化していく過程に共通性があることに気づいた。小学校時代は親を信じている時代だ。親は絶対であり、親の言うことに間違いはないと信じている。この時期の子どもから直接SOSが出ることはほとんどない。ただ、学校に行き渋るという表現をする子どもはいる。中学に入ると、気づきの時代になる。視野が広がり、自分の家とほかの家を比較し自分の置かれている状況を理解できるようになる。「うちの親はほかと違う」という確信に変わり、問題が表面化してくる。しかし、自力で生活できないこともわかっているので、親から離れたくても行動に移せない。
思春期も相まって、その苦しい気持ちを晴らすかのように荒れだすのはこの中学時代だ。図書室の本をばらまく、ドアや窓ガラスを破壊する。外に向けて怒りを表現できない子は、家出をする、自傷行動をする。また、異性と夜遊びをすることで、ひととき自分の置かれている状況を忘れようとする子どももいる。この時期の子どもには、職員が身体を張ってその行為を止め、非社会的行為は絶対にやってはいけないと伝え、さらに「明日もまたおいで」と声をかける。
高校生世代になると、はっきりSOSを出すようになる。親から離れる決心が固まって、行動に移すための相談をするようになる。私たちは、親から離れるためには、施設に入るか就職するかの選択肢があることを伝える。困難を抱えて生きている子どもが歩き続けるには、信頼できる大人が長期に援助する必要がある。その関係を続けるには、いつでも大人がいて安心して話ができる「場」が必要なのである。
なぜ事務所を開放しているのか
その一つ目の理由は、やってくる子どもにとって事務所がリラックスの場であり、職員とあたかも家族のように笑ったり怒ったり叱られたり褒められたりしながら、素の自分を出している「場」の役割を果たしているからだ。二つ目は、片手間に話を聞いてもらえるからだ。大人と話はしたいけれど、真正面から向き合われると尻込みしてしまう。台所で料理をしている母親に話しかけるように、何となく話を聞いてもらえるくらいがちょうどよいのだ。それが、職員となんとなく会話しながら関係をつくれる事務所が適している。
三つ目は、子どもの話を職員が共有できること。子どもは特定の職員にだけ相談することもある。しかし、事務所にいる周りの職員は自分の仕事をしながら、その子のつぶやきを聞くことができ、その子の状況を理解しながら見守ることができ、情報共有もできる。四つ目は、事務所にやってくる頻度が子どもの困り具合のバロメーターになる点だ。頻繁にやってくる子は、それだけ困った状況に置かれていることが多い。頻繁に来ていた子が顔を出さなくなり、友だちと遊べるようになったときは問題がよい方向に向かっていることを示している。このように、子どもたちが信頼できる大人がいて、安心して過ごせるお茶の間のような「場」を欲していることから、私たちは事務所を開放しているのだ。
壁を乗り越えて
実は大きな失敗もしている。4年前に、私の机に入れておいた小銭がなくなる事件が起きた。そして、中学生のDに盗癖があることがわかった。「迷惑をかけたので二度と児童館に行かせない」と言う父親を説得し、私たちは今までどおりに来館させる許可を得、盗癖を持っているDと向き合っていく道を選んだ。この出来事から、子どもを信用することと、きちんと物の管理をすることは別次元の問題であることを大きな痛みとともに知らされた。子どもに不要な欲望を喚起させてしまったことを後悔し、今後の対応を話し合い、貴重品や書類は鍵のついたロッカーやキャビネットに入れることにした。
また、以前から事務所に子どもを入れることに難色を示していた役所への配慮と保護者からの理解を得るために、名称を事務所兼相談室と改め、物や書類の管理を徹底するとともに、PCなどの機器を守るため事務所内での飲食を禁止した。あれから4年、相変わらず小学生から高校生世代の子どもが事務所を居場所にしているが、盗難事件は起きていない。先日、男子高校生が「仲間と待ち合わせて遊ぶたまり場はほかにもある。だけど一人でも安心して来られる居場所はここだけだ」と言ってくれた。途切れることなくやってくる子どもたちが、ここを頼りにしている間は、このお茶の間のような事務所を閉じるわけにはいかないのだ。
出典:じどうかん2018秋号