home

あそびに関するちょっとした考察

財団法人 児童健全育成推進財団 事務局長 鈴木一光


プロローグ

オールコック(イギリスの初代駐日公使)は、幕末の日本人の歴史・社会・経済・文化を驚くべき広さで観察しています。その著書である『大君の都』の第36章に以下の文章があります。

「イギリスでは近代教育のために子どもからうばわれつつある一つの美点を、日本の子どもたちはもっていると私は言いたい。すなわち日本の子どもたちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることはない。彼らはひょうきんな猿を背負った旅芸人を追っかけてゆくし、そのような楽しみから得られるような幸福より重厚な幸福は望まない。」

このように育つ日本の子どもたちを見ると、やがてイギリスにとってこの国はあなどりがたいものになるだろう、と主張しています。

さて、あなどりがたい国かどうかは別にして、平成の日本、どこかにこのような美点を持っている子どもがいてくれるといいのですが。

1.『あそびの宝箱』をどう読むか

むかし、むかし、神様は私たちによく贈り物を下さいました。

たとえば、竜宮城から浦島太郎が持ち帰った「玉手箱」や、ギリシア神話の「パンドラの箱」のお話を思い出して下さい。

「玉手箱」は持っているだけで若さがじわじわしみ出していたに違いありません。太郎が開けることによって、実は若さの素が白い煙となって中空に散ってしまったのかもしれません。しかし、太郎はおじいさんになって、むしろ幸せだったとも思えます。

さて「パンドラの箱」は最高神ゼウスが、人間たちがあまり賢くなるのを好まず、懲らしめのために造って地上に贈られた、超魅力的な女牲というものが持たされた謎の箱です。ゼウスに「決して開けてはいけない」と言われてきたのに、当のパンドラ自身がある退屈な日にそっと蓋を開けてしまいました。その瞬間、箱の中からもやもと怪しいものが立ち上がり、たちまち四方に飛ぴ散りました。パンドラはあわてて箱の蓋を閉めましたが、時すでに遅く、病気、悪意、嫉妬、暴力、戦争、災害など、ありとあらゆる悪いものが地上に広がりました。かろうじて一つ箱の底にとどめられたものが“希望” でした。

さて、本書『あそぴの宝箱』からは何が飛ぴ出すか。

ご存じのあそびも当然飛び出しますが、それ以上に子どもたちと楽しく時を過ごす方法がたくさん集められています。これをマスターして子どもを退屈させないのも児童厚生員の立派な技量です。

しかし、それだけでは児童福祉施設の職員としては不十分です。

 

「勉強させてくれればねー、児童館も役立つんだけど…」

「私たちの都合に合わせて、子どもを預かってくれりゃいいの!」

「児童館の職員て、楽しくていいわねー、子どもと遊んでいるだけよー」

 

という世問の声が聞こえてくるようです。それでいいんでしょうか。私たちが“あそび" の真価をきちんと説明できなくては、子どもにとって必要な「あそびの文化」をいつまで たっても取り戻せません。

何のために大人が子どもを遊ばせようとするのか、その理由を確認してから箱の蓋を開いて下さい。きっと“希望"が湧いてでます。

2.あそびって何なの

ホイジンガ(ドイツの哲学者)は、その著書『ホモ・ルーデンス』の中で「人間は本質的に遊戯するもの。遊ぶことを本質的に内蔵している」とした上で、あそびの条件を挙 げています。ホイジンガの定義に従って、次の5つにまとめてみました。

 

①自由な活動-楽しむこと自体を目的とした自発的・能動的活動

②非日常的活動-毎日の経済的日常生活や普段とは違うことを本人が意識している活動

③時間的完結性と空間的限定性-限られた時間、限られた空間が活動の場となる

④固有の規則-活動を面白くするためルールを必要とし、ルールが強く守られる活動

⑤没利害-楽しむこと自体が目的、金銭的利益は二の次の活動

 

子どもから見て、児童館活動はこの5つを充分に満たしているでしょうか。相当に制限のある自由である場合が多いと思われます。そして、それは本当に改善できないこと でしょうか。

何のためにあそびが大切なのか、発達心理学の角度から見てみましょう。

まず、人間はオギャーと生まれると自分では動けませんから、ひたすら寝ているだけです。私たち大人もそうですが、1時間も同じ姿勢でじっと講義などを聞いていますと、身体を動かしたくてむずむずしてきます。増して、これから活動期に入る赤ちゃんは、自ら進んで動き回りたいという「活動欲求」を強く持っています。次に、枕元のガラガラのオモチャなどに「コレハナンダロウ」という興味・関心を抱きます。これが知的欲求(好奇心)といわれるものです。

あそびの考察画像

この活動欲求と知的欲求が重なって、「探索欲求」というものが発生します。遠くでキラキラ光るものに関心が向き、手に取って、しゃぶって何だか確かめたい、という気持ちが芽生えてくるのです。その結果、興味のあるものにハイハイして近づいていったり、好きな活動を繰り返すという「探索行動」が起こってきます。

その中で、愉快で楽しいと感じるものが“あそび”です。

つまり、よく遊べるということは、身体が健康であり、心が開かれていることになります。おまけに遊ひの中に親や大人が加わったり、褒めてあげたりすれば、愛情欲求(人に愛されたい、好かれたい)や自已顕示欲求(自分に関心をもってもらいたい、自分の存在を認めてもらいたい)といわれる欲求も満たされます。そうすると、ますます自発的・能動的・積極的に行動するような性格が形成されます。

欲求が満たされている子どもは、他人の欲求も認められるようになっていくものです。

ここが大切なところですが、基本的に人間は自分が親や大人から与えられたものしか他人には与えられない社会的動物だ、という説が有力です。子どもにとってどのように生きるべきかは、身近に生きる大人を見習うしかないからです。子どものしゃべり方は同性の親によく似るし、金銭に関する価値観などもそっくりになります。親に虐待された子どもが親になると、またわが子を虐待して育てるようになるという報告も多くなされています。これを社会的遺伝といいます。

よく遊ぶということは、積極的に人生を生きる第一条件といえます。

3.勉強する方がいいんじゃないの

『男はつらいよ・寅次郎サラダ記念日』(監督・山田洋次)で寅さんが名ゼリフを吐くシーンがあります。荒川の土手に甥の満男と並んで座っています。

 

満男 「伯父さん、質問してもいいか」

寅 「あまり難しいことは聞くなよ」

満男 「大学へ行くのは何のためかな」

寅 「決まっているでしょう。これは勉強するためです」

満男 「じゃ、何のために勉強すんのかな」

寅 「つまり、あれだよ、ほら、人間長い間生きてりゃいろんなことにぶつかるだろう、

なあ、そんな時に俺みたいに勉強してない奴は、振ったさいころの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるしかしょうがない。ところが勉強した奴は、自分の頭できちんと筋道をたてて、こういく時はどうしたらいいかなと考えることができるんだ。だから、みんな大学へ行くんじゃねえか。だろ。」

 

さて、警察庁が発表する子どもの自殺の原因・動機は例年、第1位が学校問題です。

好奇心を満たすことは楽しいはずなのに、加熱する受験戦争の重圧が子どもたちにのしかかっているのが伺えます。学問は自分にとっての幸福を見つけるためのもののはずです。そのための学校が子どもに暗い影を投げかけているのは辛いことです。

放課後の子どもたちは、学習塾やお稽吉ごとに通う合問、児童館に顔を出したり、子ども部屋の中で、テレビを見るかマンガを読むかして、夕方の時を過ごしています。夕方の町並みに子どもの歓声は響かなくなりました。このような姿を子どもの「巣籠り」と形容する学者もでました。

しかも、この巣籠りは青年期まで続いて、ウォークマンやパソコン、カタログ雑誌など、青年たちは自分一人で完結できる自閉的文化の商品に囲まれて生活しています。これがカプセル文化であり、この独りあそびになれてしまうと他人に気を使う必要がありませんから、確かに簡単で気楽です。その結果対人恐怖症的な傾向がある「おたく」族の誕生となるのではないでしょうか。

この青年たちの特徴は、この社会を構成しているメンバーとしての行動がとれなくなることです。他人との意見調節の経験がない結果、自己を甘やかす傾向が高まり自己主張に終始してしまいがちです。社会に打ち解けられないため、最後には生き甲斐を持てない孤独な淋しい生涯を送る蓋然性が極めて高くなります。

つまるところ、受験勉強はすでに答えの出ている問題に早く到達する訓練に過ぎません。機械的にでも正解すれば一流大学に入学できます。

その子どもがクラスで自分の意見をしっかり発表できるとか、家で寝たきりの祖母に優しいとか、いじめられている同級生をかばっているなどということは一向に斟酌されません。星座の美しさにうっとりした時を過ごしたり、シェイクスピアの名文を暗記していたら、この競争には勝てません。まして、人は何のために生きるのか、などということは大学に入ったら考えればよいと、子どもたちは言われ続けました。学校と塾に何でも教わってきた子どもたちは、青年になって生きる意味について考えるような場合も、すぐ答えを求めたがり、そのような命題を真剣に話し合ってくれる大人に巡りあえぬ間に、怪しげな新興宗教に出会ってしまい一生を棒に振るなどということにもなりかねません。

やはり、友人とダイナミックに遊ぶ体験、テントの中で語り明かす経験が、社会という人と人の間を積極的に生きていける人格を陶冶するものと言えましょう。

4.あそびは人間性を豊かにする

人間が社会人として人間らしく生活することができるようになるためには、地球は自分中心に回っているという甘えた心理を解消し、人は基本的に他人に興味を持たないという哲学を身につける必要があります。その結果、住みよい社会を保つためには自分から協同・参画的な人間へと変容していかなければならないことに気づくことが大切です。

そのために資するあそびを「あそぴの宝箱・の中に押し込めたつもりです。日的は_人ひとりの子どもを健全に育成することです。どんな時代にもたくましく生きていける大人を目指した健全育成活動です。以下に、健全育成とは何か分析してみました。

 

①身体の健康増進をはかること

子どもが日常生活を営む上で充分に行動できる体力を培うことです。結果として、病気にかかりにくい抵抗力を養うことになり、危険を回避する能力も高まります。そのためには、自発的に身体を動かしたくなる動機づけが児童厚生員には要求されるでしょう。

②心の健康増進をはかること

子どもが日々安定した状態で、自分が考えたこと、感じたことなどを自由に表現し行動して、自己の能力を存分に発揮して生活できるように援助していくことが必要です。

子どもがもっている基本的な欲求(活動欲求・愛情欲求・自己顕示欲求)を受け入れていく受容的な人間関係を保つことが、その後の子どもの心の健康増進の基礎になります。

③知的な適応能力を高めること

子どもの能力に応じて可能なかぎりの知識・技術を獲得させ、実生活のなかで知的に物事に対処できるような知恵を出して、実際にその問題を乗り越えられるような力を高めることです。

④社会的な適応能力を高めること

子どもの発達段階に応じて、自分の所属する様々な集団生活の場(家庭・児童館・保育所・学校・クラブ活動など)において、自己を失わず他の子どもたちと協調できるような力を育むことです。

⑤情操を豊かにすること

情操とは・美しいもの・崇高なもの・純粋なものを見たり、聞いたりした時に素直に感動する豊かな心を養うことで九感一性を磨くことと置き換えてもよいでしよう。感性とは直感力ともいわれ・微妙な変化や違いに気づく能力です。この能力を高めるのに、読書・映画.劇・音楽・絵画観賞などが役立ちます。何かを一心に思い詰めて考えていると、何かを見たり、聞いたりした瞬間に、ハツとひらめいて問題解決の糸口が見つかることがあります。これが感性の働きで・ニュートンのりんご、アルキメデスの入浴のようなものです。そして、この感性が発達すると、色々なことによく気がつく人になれます。相手の立場や、場の雰囲気、人の善意や悪意、他人の苦労に涙し、弱い立場の人を思いやれるように成長していきます。

 

健全育成とは、以上の5項目をバランスよく一つの人格の中に結実させることです。

児童福祉法40条はこれを児童館に期待しています。しかし、子ども自らが納得したものでないと人格に変容を来すものにはなりません。そこで、“あそび”を活用することが大切になってきます。無理強いをして学ばせた教えは、日光猿軍団と同じで恐い人がいなくなると雲散霧消・元の木阿弥となります。あそびの活動で得たものは、感動として心に刻みこまれます。感動して得たものは生涯その人を虜にします。「あそぴの宝箱」のどのあそびが健全育成の何に資するか、検討して活用して下さい。

5.私たちは遊ぱせ屋じゃない

日本の社会の変化をべースに、幼児期からの塾通いに象徴される進学のための受験一辺倒の考え方は、子どもからあそび時間とあそび仲間を奪ってしまいました。そのため子どもたちは情緒的にも不安定になり、社会的な不適応行動が目立つようになりました。それは子どもからのSOSではないでしょうか。

 

①身体の成長と発達の不均衡

現代の子どもを評して「体格あって体力なし・と言われ久しくなります。最近、児童館からも次のような報告があります。

◎歩くとすぐ「疲れた」という子が多い。

◎身体を動かしたがらない子がいる。

◎よくしゃがんだり、よりかかったり、頬杖をついている子がいる。

列挙された内容を見ますと・生活の中で鬼ごっこや縄跳ぴなどの「運動あそび」の機会が減少していることに原因が、求められそうです。

②日常生活における不器用

近年・ハサミやナイフを上手に使えない子や、紐が結べずに鉢巻きが絞められない子をよく見かけます。また、子どもの世界から「お手玉」「綾取り」「めんこ」「竹馬」「独楽回し」などの伝承的なあそびが影を薄めてしまいました。

ところで、「不器用・という現象は、大人たちの世界にも蔓延しています。インスタントや冷凍の食品を主体にしたコンビニエンス・ストアーの普及や電化製品・台所用品の発達は、生活を快適にしましたが、これまで受け継がれてきた生活技術を低下させました。極端なケースではまな板と包丁のない家庭、針箱のない家庭まであります。大人が子どもの見本になりにくい時代になってしまいました。

③情報処理能力の欠如

情報化社会の中で、子どもたちのテレビ視聴時問は平均2時間30分から3時問です。

もちろん悪いことばかりではありません。間題は何を見ているかでしょう。しかも、それにテレビゲームが加わります。実体験が伴わないまま与えられた情報を確認する手段も持たず、信じ込むようになります。これはわれわれ大人も同じ危険の中に生きているといえます。

問題は、画面の中にしかくつろぎや楽しさを見だせなくなることです。実生活を豊かにするための情報であることを忘れさせないような大人の関わりが必要となります。

子どもをテレビのレボーターのように、第三者的な状況報告を上手にさせることではなく、生きた体験学習の機会を増して、その社会の当事者としてどう関わるかを学ばせたいところです。

④社会との絆が細い

受験競争に勝ち進むことだけが目標の子どもたちは、世界や日本の動きに無頓著になってあたりまえで、塾とお稽吉ごとの間の細切れの時間にマンガやテレビを見て過ごしています。こうした結果、自ら孤立化し、仲間と群れて遊ぶことを苦痛とする子どもが増えているようです。それに拍車がかかるのが家庭の雰囲気です。成績によって親から日々評価され、今や、子どもにとって家庭は安住の地ではなくなりました。

⑤対人関係能力が稚拙

少子化、受験加熱、核家族化などによって、子どもが人と交わる機会が極めて減少しています。仲間と遊んでルールを覚え、友人に助けられたり、裏切られたり、色々な友が立場や状況で様々な人格を見せてくれたり、ガキ大将の采配に感服して、その態度・物腰を真似してみたりして学習ができました。

家庭の中でも、祖父や祖母をはじめ両親や兄弟の関係か複雑な人間模様を眺めて成長できたし、親戚も身近で寄り合っていました。祖父母や両親の老いていく姿も、自分のライフサイクルを考えるよい見本でした。それらがなくなった現在、人間関係を構築することが不得手な子どもがいるのも当然かもしれません。

 

以上のような子どもの福祉課題の多様化を考える時、子どもの精神的あるいは身体的発達のゆがみ現象を、子どもだけの間題としてとらえるのではなく、親・家庭を含めた社会全体の問題として啓発していく必要があります。私たちの仕事は子どもがより幸福になるのを援助して、それを阻害するものがあれば、世論を喚起して排除していくことです。

この「あそぴの宝箱」を使って児童館で子どもを遊ばせればよいのではなく、どの遊ぴが子どもの福祉課題のどれを予防し、どれを解消するのに役立つか考えて、それを親と広報を通じて社会にアピールして活用して下さい。例えば、歩くとすぐ疲れたという子どもをよく見かけます。これでは社会に出ても経済活動に差し支えるだろうし、子育てにも体力が入ります。その子どもたちに必要なことは体力増進活動であり、身体を動かすことの楽しさを覚えてもらうことです。根性ものの学校マラソンは面白くも何ともありません。ですから・ハラハラドキドキする鬼ごっこで館内外を駆け回ります。1時間で子どもも気がついていませんが5キロも走ることになります、というように宣伝して下さい。

子育て中の親・家庭の援助にも活用して下さい。また、母親クラブや子ども会の活動にも技術提供して下さい。それが施設の社会化です。

6.人は何のために生きるのか

科学は進歩し続け、もはや人間はボタンを押す能力だけがあればよいと主張する人達もいます。しかしそうでしょうか。人類は思い脳をもたげてバランスをとりながら苦心して直立歩行の道を選ぴました。

その結果、自由を得た手指を巧みに動かして他の動物との違いを明確にして、月に行かれるほどの文明社会を創造してきたのです。それこそ人間であることの証明です。歴史の進歩に逆行するようなことは否定するべきだと思います。

「手は表に現れた脳である」と言われます。子どもが自ら手を動かし操作して、環境に適応して行こうとすること自体、頭脳の働きを盛んにし知能の発達を促進することとなります。おしなべて物質文化の進展は、人間の活動意欲や積極性を削ぎやすいことに留意し、それを取り戻す方途を常に模索しておく必要があると思います。

日本は長寿社会ですが、人はいずれみんな死にます。私たちは死に向かって生きているとも言えます。明日死ぬかも知れず、半年後かもしれません。あるいは一年先か、三十年後かもしれません。しかし、確実に死にます。だとしたら、どう生きたら「生まれてきてよかった」と思えるか、今のうちに考えておきましょう。

お金をたくさん貯めたいのか、高級車を乗り回したいのか、賛沢な住居で暮らしたいのか、ブランド物の衣服で身を飾りたいのか、スマートな身体を保てればよいのか、休暇が欲しいのかなど一度真剣に考えてみてもらいましょう。そして、何のためにそれを望むのかじっくりとつきつめてみます。もし、無人島で生活せざるを得なくなってもそれを望むか。豊かな近代文明は、人々に何でも望めば達成できる(全能感)気持ちを抱かせ、爽雑物に目が眩みます。本当に自分にとって大切なことを見失いがちにさせます。

一週間先に死が訪れても悔いのない日々を送りたいものです。多くの場合、愛する人(家族)といられることが一番幸せのはずです。「青い鳥」の寓話はまさにそれを示しています。「パンドラの箱」の話も、神々からの“すべての贈り物”とは人間(トラブルの種かもしれないが)のパンドラそのものでした。

大人の生きる姿が子どもに影響します。いやいや生きてしかたなく仕事をしている人が、いくらゲームを使いこなしても…

エピローグ

イギリスの青年外交官アーネスト・サトウの回想録「一外交官の見た明治維新」という書物があります。幕末の政情不安の渦中で、困難な紛争を身をもって体験した外国側からの貴重な維新史です。その第1章には、日本に対する憧れと通訳生としての試験に合格したいきさつが述べられています。そんな中で以下の記述が私には忘れられません。

少し長くなりますが、引用してこの章を閉じたいと思います。

「・・・。この試験制度の大きな欠点は、人間の徳牲(モラル)を考えないところにある。受験者が紳士の作法を心得ているか、また紳士としての感情を抱いているかどうかは、ユークリッドの定理を書かせたり、ギリシアの学者の書いた文章を翻訳させたりする方法で判定できるものではない。そんな方法で知能の試験はできはしない。頭の鈍い青年でも適当な受験勉強の指導をうければ、山を賭ける「秘訣」を知らない誠実な学生を大抵わけなく打ち負かすことができるからだ。当今、公開試験の受験者はみな受験勉強の先生につくが、この先生は試験目当ての数力月の訓練で、かりそめの不自然な果実を実らせる。私に言わせれば合格した受験生とは取りも直さず、上手に受験の指導を受けた志願者に過ぎない。しかし、大抵の受験生はこうした方法がついには嫌気をさし、以前は勉強好きだった者でも勉強する気持ちをなくしてしまう。」

pagetop